現在大阪府堺市に居住している。堺市はいわゆる仁徳天皇陵(大仙古墳)を代表とする百舌鳥古墳群がある場所として知られる。近年世界遺産にも登録された。この堺市から奈良県橿原市に向けて竹内街道という道があり、これは日本最古の官道と言われている。今回竹内街道から橿原市に向けて小旅行をして博物館3つを巡り、その後大阪市の図書館で色々と本を読んだので、その内容を記載することとする。
そもそもこの辺りにはいつ頃から人が住んでいたのだろう、という疑問もあった。人類がアフリカを出たのが約10万年前で、日本に人が住み始めたのが約4万年前らしい。奈良盆地には約3万年前の石器が発掘されているそうなので、概ねその頃から人は住んでいたと思われる。
何故堺や奈良盆地にこの時代人が住んでいたかということに関しては、大阪府太子町に二上山という山があり、ここで石器を作るに適した石を産出したのが大きな要因のようだ。堺と奈良盆地を隔てる山地辺りに相当する。サヌカイトという名前の安山岩系の鉱物でその名前も讃岐地方に由来する(讃岐地方でもサヌカイトを算出する)。石器時代や土器時代では原料となる石や土が重要となるのは当然ではある。
旧石器時代から縄文時代を経て稲作技術がもたらされて弥生時代に至る。中国で稲作が開始されたのが約8000年前、これが九州に伝播したのが約3000年前なので、中国と日本の稲作開始時期には約5000年の違いがある。文明の開始時期の違いとも言える。この稲作技術が日本に広がるには更に時間が掛かり、約2700年前辺りから広く稲作が開始されたようだ。
古墳時代に大型古墳が作られるようになるが、最近では弥生時代にも結構大型な古墳状の墓が作られていたことが分かってきている。弥生時代のものは墳丘墓と呼ぶ。何かの特別な出来事があって弥生時代から古墳時代になった訳ではなく、徐々に社会が変化して古墳時代に至ったということだろう。
この時代には、大陸から新しい文化が来訪したために、その入口である北部九州が当時は最も進んだ地方であった。福岡県で発見された倭の奴の国王の金印は後漢書によるとAD57年に与えられたということで、1世紀半ばには北部九州に王権があったことを意味する。これが畿内の大和朝廷に遷移する過程はよく分かっていない。邪馬台国の九州説、畿内説に決着がついていないのは周知のことだろう。
因みに邪馬台国の卑弥呼が死亡したのがAD247年付近と推定されている。最古の古墳が奈良盆地で製造されたのが3世紀中頃とされているので時期的にはほぼ一致する。邪馬台国九州説に立てば、その頃九州と畿内のどちらにも大きな勢力があったことになり、邪馬台国畿内説に立てば、奈良盆地のどれかの初期の古墳が卑弥呼の墓ということになる。
弥生時代の中期から後期に、高地性集落というものが作られるようになったそうだ。高地性集落というのは、行き来に多少の困難を要するような髙地(2〜300mの高度)にできた集落のことで、このような場所に集落を作った理由は、軍事上の目的と推定されている。攻められたときの防衛に便利であることや、のろし台としての意味合いであったようだ。つまりこの頃から集落、小さな国同士の争いが起こっていたことを意味する。更にこの高地性集落は瀬戸内から近畿地方にはあるものの九州地方には作られていない。これらのことから、これらの地方の高地性集落は九州地方の勢力と対峙するためではないか、という仮説があるようだ。
この仮説に従うと、1世紀半ば頃は北部九州に王権があり、倭の奴の国王に金印を与えたのは中国の後漢であることから北部九州の権力は後漢と繋がりがあった。一方で邪馬台国の記載は魏志倭人伝にある。魏志倭人伝は魏国の史書で、ここで言う魏は三国志の魏に相当する。邪馬台国は漢が滅びたため魏と繋がりを持ったのかもしれないが、あるいは後漢が残っている段階から後漢は九州の勢力と繋がりがあり、新興勢力である畿内の勢力は同じように新興勢力の魏と繋がりを持つようになったのかもしれない。このように考えると邪馬台国は畿内にあったということになるが、この当時渡来人からの文明、技術が日本国内に大きな影響を及ぼしていたことを考えると、このようなドラマの方が面白いようには感じる。その後邪馬台国がそのまま、あるいは代替勢力が大和朝廷を作っていったということなのかもしれない。
最後に今回訪れた博物館を下に記載する。
太子町立竹内街道歴史資料館
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